54.和田正道元調教師インタビュー
日々サラブレッドと向き合いながら、馬を見ることを仕事としている競馬関係者の方々へのインタビュー。5人目は、今年2月に定年引退され、現在はご出身の和田牧場で育成に精力を注がれている、和田正道元調教師です。クラブ馬との関わりではグリーンファーム愛馬会の「アース」シリーズ等、海外セリのパイオニアとして活躍されてきた元調教師ならではの視点から、馬体の見かたのヒントをお聞きしました。
和田正道元調教師プロフィール
野平祐二厩舎にて調教助手として活躍した後、1982年に調教師免許を取得。マーメイドタバン、プロモーション、アースサウンド、トップガンジョー、ゴッドオブチャンス、マイネグレヴィル、カウアイレーン(ステイフーリッシュの母)、ラルケット(ステルヴィオの母)など、数々の重賞活躍馬を育て、またその血は現在も日本競馬に脈々と伝わっている。海外のセリでも豊富な実績。2018年2月に定年のため調教師引退。35年間で通算672勝。現在は出身の和田牧場に戻り、育成の最前線で活躍中。オジュウチヨウサンを管理する和田正一郎調教師は長男。
引退後も育成の現場で
―今年の2月末で調教師を定年引退されましたが、美浦トレセンとは場所こそ違え、ご自身の和田牧場にて、これまでと同じように現場の指揮を取っていらっしゃる姿を見て驚きました。
和田正道元調教師(以下、敬称略) 顔つきが柔らかくなったと言われます。現役の調教師であった時は、勝負師のような険しい表情をしていたかもしれません。引退したあとは、こうして牧場の仕事に携わりながらも勉強させてもらっています。JRAの人に冗談でこう言いました。「これから馬のことを勉強して、92歳になったら調教師の試験を受け直したいです」と(笑)。それぐらいの気持ちを持って、今も勉強中です。
和田牧場は今でこそ育成牧場ですが、昔は馬を生産していました。3年に1回ぐらい重賞を勝っていたのですよ。第1回のエリザベス女王杯を制したデイアマンテという馬などを生産させてもらいました。
――和田先生は獣医師の免許を取り、その後、牧場を継ぐのではなく、1978年に調教助手としてキャリアをスタートされました。
和田 親父には反対されましたよ。以前は、調教師の地位は今ほど高くなく、馬主さんの力が強かった時代でした。生産者として成績も良かったから、安泰かつ気持ちが楽なのは明らかでした。その反対を押し切って、調教助手として競馬の世界に入ってここまでやってきました。調教師になってほどなく親父は、「俺が息子に調教師になることを勧めた」と人には言っていましたけどね(笑)。
大学を卒業してから調教助手になるまでの期間に、海外の競馬を見て回ったことがあります。私の通っていた大学があった岩手では有名な大馬喰(おおばくろう)に、「外国に行って馬を見てくるべきだ」と言われたことに刺激を受け、海を渡りました。ウラジオストックで乗り継ぎをして、モスクワに入ったことを覚えています。ロシアの飛行機は旧式でしたから、いつ落ちるかとヒヤヒヤしました。ちょっと心配な旅でしたよ。1ドル400円のレートでしたから、その当時は競馬を見に外国に行くなんてことは珍しい時代でした。
フランスやイギリス、アメリカ、ニュージーランドなど、調教助手になる前に海外に足を運びました。インスタントカメラで撮った写真に添えた文章が、競馬報知に掲載され、反響を呼びました。競馬関係者から競馬ファンまで、海外競馬の情報の少ない時代でしたしね。何年間にもわたって、毎週連載が続き、競馬報知の売り上げには相当に貢献したと思いますよ(笑)。
和田正道元調教師(以下、敬称略) 顔つきが柔らかくなったと言われます。現役の調教師であった時は、勝負師のような険しい表情をしていたかもしれません。引退したあとは、こうして牧場の仕事に携わりながらも勉強させてもらっています。JRAの人に冗談でこう言いました。「これから馬のことを勉強して、92歳になったら調教師の試験を受け直したいです」と(笑)。それぐらいの気持ちを持って、今も勉強中です。
和田牧場は今でこそ育成牧場ですが、昔は馬を生産していました。3年に1回ぐらい重賞を勝っていたのですよ。第1回のエリザベス女王杯を制したデイアマンテという馬などを生産させてもらいました。
美浦近郊で現在は育成を手掛ける和田牧場
――和田先生は獣医師の免許を取り、その後、牧場を継ぐのではなく、1978年に調教助手としてキャリアをスタートされました。
和田 親父には反対されましたよ。以前は、調教師の地位は今ほど高くなく、馬主さんの力が強かった時代でした。生産者として成績も良かったから、安泰かつ気持ちが楽なのは明らかでした。その反対を押し切って、調教助手として競馬の世界に入ってここまでやってきました。調教師になってほどなく親父は、「俺が息子に調教師になることを勧めた」と人には言っていましたけどね(笑)。
大学を卒業してから調教助手になるまでの期間に、海外の競馬を見て回ったことがあります。私の通っていた大学があった岩手では有名な大馬喰(おおばくろう)に、「外国に行って馬を見てくるべきだ」と言われたことに刺激を受け、海を渡りました。ウラジオストックで乗り継ぎをして、モスクワに入ったことを覚えています。ロシアの飛行機は旧式でしたから、いつ落ちるかとヒヤヒヤしました。ちょっと心配な旅でしたよ。1ドル400円のレートでしたから、その当時は競馬を見に外国に行くなんてことは珍しい時代でした。
フランスやイギリス、アメリカ、ニュージーランドなど、調教助手になる前に海外に足を運びました。インスタントカメラで撮った写真に添えた文章が、競馬報知に掲載され、反響を呼びました。競馬関係者から競馬ファンまで、海外競馬の情報の少ない時代でしたしね。何年間にもわたって、毎週連載が続き、競馬報知の売り上げには相当に貢献したと思いますよ(笑)。
和田氏の写真と文により競馬報知で連載されていた海外記事
野平祐二厩舎での思い出
―若かりし頃に海を渡り、見識を広めたことが、のちの和田先生をつくったのだと思います。実は、今回インタビューをさせていただくことを個人的に楽しみにしていました。というのも、僕はミスター競馬と呼ばれる野平祐二先生の大ファンであり、「ROUNDERS」vol.3では野平祐二特集をしたほどです。野平先生のおかげで、競馬が好きになったと言っても過言ではありません。和田先生も野平先生に師事されたように、ミスター競馬が競馬界への入り口だったのですよね。
和田正道元調教師(以下、敬称略) 野平先生には5年間、お世話になりました。最初に厩舎で馬に乗せて頂いたときは、5月の雨が降りしきる中で、雨ガッパから雫が滴りながら、馬に跨ったときのことを今でも覚えているなあ。馬に乗っていることが嬉しくてね。私が野平厩舎に入った年は10勝ぐらいでしたが、2年目は20勝、その後も着実に成績が上がっていきました。当時は16馬房でしたから、(その倍の)「32勝を目指そう!」と野平先生は高らかに掲げていました。
野平先生と一緒に攻め馬をしたこともありました。野平先生がシンボリ牧場の馬に乗り、私はコーラルシーという馬に乗っていたときのこと。「羽化登仙(うかとうせん)」という言葉がありますが、まるで雲の上にいるような感覚をほんの一瞬、味わったことがありました。私は小学生の頃からつい最近まで馬に乗ってきましたが、あとにも先にも、あの一瞬だけでした。
コーラルシーはその後、500万下のレースを勝ち、日本ダービーに出走できることになりました。田中清隆騎手(現調教師)が乗り、道中は後ろから行きましたが、勝負所から一気に上がって行き、最後の直線では先頭に立つ勢いでした。当時は今のように青々とした芝ではなく、砂ぼこりが舞い上がるような馬場でしたので、田中騎手が4コーナーを向いてはっと気がつくと前に誰もいなかったそうです(笑)。勝ったのはカツトップエース、ハナ差の2着にサンエイソロン、そしてコーラルシーは首差の3着でした。馬場から引き上げてくるとき、「勝ったかと思ったよ」と野平先生が興奮気味におっしゃったのを覚えています。
私は2歳馬の調教が専門で、競走馬の育成には自信がありました。野平先生は、調教に関しては現場を信頼して裁量を与える方で、私も完全に任せてもらえました。
和田正道元調教師(以下、敬称略) 野平先生には5年間、お世話になりました。最初に厩舎で馬に乗せて頂いたときは、5月の雨が降りしきる中で、雨ガッパから雫が滴りながら、馬に跨ったときのことを今でも覚えているなあ。馬に乗っていることが嬉しくてね。私が野平厩舎に入った年は10勝ぐらいでしたが、2年目は20勝、その後も着実に成績が上がっていきました。当時は16馬房でしたから、(その倍の)「32勝を目指そう!」と野平先生は高らかに掲げていました。
野平先生と一緒に攻め馬をしたこともありました。野平先生がシンボリ牧場の馬に乗り、私はコーラルシーという馬に乗っていたときのこと。「羽化登仙(うかとうせん)」という言葉がありますが、まるで雲の上にいるような感覚をほんの一瞬、味わったことがありました。私は小学生の頃からつい最近まで馬に乗ってきましたが、あとにも先にも、あの一瞬だけでした。
コーラルシーはその後、500万下のレースを勝ち、日本ダービーに出走できることになりました。田中清隆騎手(現調教師)が乗り、道中は後ろから行きましたが、勝負所から一気に上がって行き、最後の直線では先頭に立つ勢いでした。当時は今のように青々とした芝ではなく、砂ぼこりが舞い上がるような馬場でしたので、田中騎手が4コーナーを向いてはっと気がつくと前に誰もいなかったそうです(笑)。勝ったのはカツトップエース、ハナ差の2着にサンエイソロン、そしてコーラルシーは首差の3着でした。馬場から引き上げてくるとき、「勝ったかと思ったよ」と野平先生が興奮気味におっしゃったのを覚えています。
私は2歳馬の調教が専門で、競走馬の育成には自信がありました。野平先生は、調教に関しては現場を信頼して裁量を与える方で、私も完全に任せてもらえました。
写真には現れない重要な要素
―牧場で生まれ育ち、調教助手から調教師となり、これまでずっと馬が身近な存在としてあったと思います。 …